さよならヴェルダンディ

やけに濡れた花束を受け取ると、当然のようにロナルドの袖はじわりと水気を通して腕に張り付いた。正しく、言葉の通り瑞々しい真っ赤な薔薇は、ロナルドの目には精気に溢れた食物に見えなくもない。けれど、視線を上げて目の前に立つ金眼を見返せば、吸ったこともない薔薇の精気への食欲が喉の奥に引っ込むほどの緊張を背筋に走らせた。
「お、おやつ……?」
「……それでもいいけど」
 そう言って、ずぶ濡れのドラルクはスラックスのポケットを探り、今度は布張りの小さな箱を差し出してくる。ロナルドはえ、と小さく声を漏らしてその手の平に収まるほどの小箱を注視する。じっと見つめること、数秒。もう一度顔をあげる。何故ならロナルドの両手は巨大な花束で塞がっていたので。
「……」
「……あ。ああ、そうか」
 気がついたらしいドラルクが慌てて箱に手を添え、軽い音を立てて蓋を開けた。もう一度差し出されたそれを、決して視力が悪い訳でもないのに顔を顰めて見る。
「……ゆびわ……」
 ロナルドの口を突いて出たのは中に収められた物体の単語で、それをドラルクも「うん、ゆびわ……」と復唱した。再び沈黙が流れる中で、ドラルクの前髪から落ちる雫だけがポタポタと床を叩いて部屋に音を響かせる。
「……えっと、あの」
「うん」
「何でそんなに濡れてるんだ?」
 まるで話題を逸らすかのようなロナルドの問いに、ドラルクは一度瞬きをする。その手は一度指輪ケースを引っ込めたかと思うと、背後にあったダイニングチェアへと向けられる。ドラルクは特段気分を害した様子もなく、その背もたれにかけられていた隊服を持ち上げて見せた。
「花が濡れないように、これを」
「うん」
「被せて歩いて帰ってきたから」
 因みに、一週間前から梅雨時に入ったため、外はそこそこの雨が降っている。時刻は既に零時を超えており、ドラルクから帰宅するというメッセージを受け取っていた。それに対してロナルドは、雨が降っているので迎えに行こうかと返信していたのだが、それに対するドラルクの返信は、傘があるから大丈夫だというものだった筈だ。
 ドラルクの持っている隊服に視線を向けると、それは色が変わるほど濡れていて、滴る水滴の量も花束の比にならなかった。ドラルクはその隊服を再びダイニングチェアの背もたれに戻して、再びロナルドに向き直った。
「……ロナルド君」
「は、え、うん」
「続けてもいいかな」
 ロナルドは頷くことが出来ない。思考がほとんど停止していて、目の前の事象ばかりに目が向いてしまう。一番に考えていることは、やはりドラルクがこんなにも雨に降られて濡れてしまっていることだった。貧弱なドラルクはしょっちゅう体調を崩す。ロナルドは吸血鬼なので人間の病のことを知らないし、罹ることもないためその辛さを知ることができない。それでも一緒に暮らしているうちに、ドラルクの事に限って言えば、具合が悪い時の顔色くらいは見分けられるようになったし、触れてみて身体がやたらと熱くなっている時の対処の仕方くらいは分かっていた。そのくらいの日々を、ドラルクと暮らしてきている。
 今はまだ大丈夫そうだが、よく見れば目の下の隈は酷い。きっと昨日は徹夜でもしたのだろう。
 けれど、金の目が。そして差し出された金色の指輪が。
 がさ、と音が立てられて、ロナルドはびくりと肩を竦ませる。気がつけば花束を抱える両手にドラルクの手が重ねられていた。ドラルクの手は冷たかったので、まだ熱はないようだと頭の片隅で思った。
 むしろ冷たすぎて、ロナルドをこの場この瞬間に、今にも縫い留めてしまいそうなくらいの、そんな刺すような冷たさだ。
「ロナルド君、あのさ」
「あ、」
 次の瞬間ロナルドは楔のようなドラルクのその手を振り払い駆け出して、雨の中窓から飛び出してしまっていた。

 そうして気が付けばよくよく見知った場所にいた。
 ロナルドはいつの間にか人通りがまばらな新横浜の街中を見下ろしていて、自分の今いる場所を認識するのと同時に腕の中でガサ、と音が鳴った。どうやら花束を抱えたまま飛び出してしまったらしいと気がついて、しかし捨て置くなどということは絶対に出来なかったから諦めてそれを胸に抱いて眼下を見下ろした。
 ここはロナルドが初めてこの街を訪れた時に、吸対や退治人達と交戦した場所だった。彼らを通して見える何者かに、一目で興味をそそられたのを覚えている。この場所に降り立った瞬間に、ああ誘い込まれたのだとすぐさま理解出来た。自由に、享楽のままに、兄のような吸血鬼になりたい一心でこの街に来たというのに、まるで最初から袋のネズミみたいに扱われたことが心底から気に食わなかった。しかも当の首魁は姿を一向に見せないのだから一層ムキになるというものだ。
 ああ、悔しい。暫し雨の中でロナルドはしゃがみ唇を軽く噛んで、大通りを見下ろす。思えば最初からあのダンピールにしてやられていたのではないかという気持ちになってきて、小さく呻き声を漏らしながら濡れつつある頭を抱えた。
「ていうか、花とか……指輪とか、なんなんだよ……」
 雨に打たれて冷えていくはずなのに、やけに顔が熱くなっていく。自分は吸血鬼で、ドラルクは吸血鬼対策課の隊長だ。思い返せば色んなことがあったような気がするが、けれどそれはロナルドの長い吸血鬼生のことを考えれば瞬きの間に過ぎない。それなのにどうしてここに来てからの年月の方が、こんなにも色濃く鮮やかにロナルドの中に刻まれてしまっているのだろうか。
 花束に顔を埋めながら胸を抑える。畏怖されるべき吸血鬼の心臓は冷たくなければならないのに、ドラルクに出逢ってから今日まで、毎日毎日ロナルドの心臓は熱を灯しっぱなしなのだった。
 こんなに熱いままであればいつかこの身が焼け落ちて、望んだように塵と化すことができるかもしれない。そんなバカらしいロマンスを想像したことが何度もあったが、かくの如き夢想をドラルクに伝えたことなど当然ない。それにロナルドの本懐は死んで蘇ることだ。塵になったままでは意味がないだろうと、何度も訂正してきたことをまた胸中で繰り返す。
「はあ……」
 立ち上がって花束を抱え直すと、雨に打たれた薔薇がはらはらと花弁を散らせていく。せっかくドラルクが身を呈して持ってきてくれたのに、着の身着のままで飛びだしたせいですっかり濡れてしまっていた。外套もベストもないので、せめて両手で落とさないようにしっかり抱くと、芳香が雨の匂いに混じって香った。
 そもそも、どうして今日なのかが分からない。思い返してみれば、何の前触れもなかった。それとも何かドラルクの変化を見逃していたのだろうかとロナルドは思考を巡らせながら、ふいと鈍色の曇天を見上げる。
 どうして今なんだろう。
 ドラルクが果たして本当に追ってきているのかは分からないが、もしも追いかけてきてくれているのであればぼやぼやしていれば流石に追いつかれてしまう。月も星も見えない雨夜の中であれば、きっともう少しの間は逃げていられるだろう。
 ロナルドはもう一度しっかと、けれど形がこれ以上崩れないように花束を抱きしめて、ビルからビルへと飛んでその場を後にした。

「……いねぇし!」
 ロナルドが大通り傍のビルを去って数分後、ようやく気配を辿ってきたドラルクは盛大に舌打ちをした。雨の匂いに混じるロナルドの気配をもう一度確認するが、既にここからは立ち去った後のようだった。この街の中にいるのであれば完全に見失うなどということは絶対にありはしないが、それでも疲労とこの雨足の中で集中力を持続させるのは容易ではなかった。
 一応傘は持ってきているが、びしょ濡れのままで飛び出しているので身につけたものはすっかり冷え込んで体温を下げている。せめて着替えてくればよかったと後悔しないでもないが、今更追うのを中断はできない。
 痛む頭を堪えながら、ドラルクは鼻先を上に向けてスンと鳴らす。しかし深夜ということもあって人通りも車通りも少ないが、新横浜内に点在する吸血鬼の気配に集中が削がれてしまっていた。
 血液錠剤を濡れた隊服の内ポケットに入れたままだったことを思い出し、歯噛みをする。ロナルドの大きすぎる気配であれば確実に追える自信があったが、今は大きすぎて詳細な場所の把握が難しくなってしまっていた。何となくの方向は分かるのでそちらに行き先を向けかける。
「……ん?」
 そこにふわりと視界に何かが横切る。遅れて視線で追うと、地面に落ちたところでそれが何なのかがようやく認識することができた。見ればそれは点々と地面に点在しており、ひどくまばらではあったがぼんやりと方向を示しているように見える。しかし、時間が経てばこの雨足で側溝に流されてしまうだろう。
「はぁあ……」
 疲労の息を吐き傘を肩に乗せ、ドラルクはそちらに足先を向けた。バタバタと雨粒が傘の生地を叩く音がやけに大きく響いて聞こえる。時計を確認すると、日の出時刻まではあと二時間ほどになっていた。
 飛び出す直前の混乱したロナルドの表情を思い出す。気の毒なことをしたと思う反面、帰りしなに想像していた予測を超える反応だったことにはドラルクも驚いていた。まさか逃げられるとは。
 同時に自分の、このどこから湧いてくるのか分からない行動力にも驚かされていた。しかしこのポケットにいれた指輪はいたってなんてことのない日の中で湧き上がった感情だったのだから、仕方がないのだとドラルクは自身に言い訳をする。
 ある明け方のことだった。寝ているロナルドを起こさないようベッドから抜け出し出勤の支度をしていた際、ふと視界にロナルドの左手が入ったのだ。塗って欲しいと頼まれて施したネイルが輝く爪先を掬いとってもロナルドが起きる様子はなかったので、そのまま一度目測でサイズを確認した。
 その後すぐに宝飾店へと赴いて、やはり正確なサイズを測るべきだと思い再び寝入っているロナルドのリングサイズを測ったのが、それから三日後のことだった。
 やがて注文した指輪は無事完成し、ついでに注文したバラも見事なものが用意されるに至った。
 行動はした。してみたものの、酷い話ではあるがドラルク自身どうしてこんなことを、と思いながら歩く。吸血鬼ほど夜目の効かない視界で、尚且つメインの通りから外れ街灯も段々とまばらになってくると、足元の水たまりに気が付かないことも増えてくる。すぐに靴の中までしっかりと浸水され、濡れて気持ちの悪い感触の中で歩き続けた。
 そもそもこんな大それた物を用意しておいて、とにかくまずこれをロナルドに渡そうという衝動性に突き動かされるばかりで、結局言葉が一つも出てこなかった。指輪が完成するまでの間にぽつぽつと考えていた台詞も確かにあった筈だったし、頭の中で何度も予行演習していた。それが、口先三寸で生きてきたような自身がたった一人の吸血鬼相手にこんな醜態を晒す羽目になっている。もっとまともな申し出がロナルドに会う以前の自分ならば出来たはずだ。もっとも、ロナルドに会う以前はこれほど真剣に、他者に自分の考えていることを伝えようと思ったことが無かったのだが。
 この一連の行動の理由について何故と聞かれたら自分がなんと答えるのか、ぐじゅぐじゅと靴を鳴らしながら考える。どうやらこの冷え込みで頭に昇っていた血が幾らか凪いできたようだった。理由を思い浮かべるにあたって、疲労と寝不足で脳は普段の駆動率の半分以下になっている気がしたが、それでも日常の中で見てきたロナルドの様々な表情は克明に現れるのだから不思議だ。
 そう、例えば。
 用意した料理がロナルドの未だ見たことのないものであれば、まず目を輝かせる。口に入れる前から食事とは開始しているというドラルクの思惑をロナルドは寸分違わず汲み取り、そして魅せてくれるのだから、堪らない。だから、ロナルドがこれまでに口にしたことのないものを出すのは本当に愉快で堪らない。真っ赤な瞳にたくさんの光を集めて作ったものに感嘆の声を漏らし、そうして大きな口で目一杯に頬張る姿といったら。因みにロナルドの牙は吸血鬼たちの中でも少し大きいそうだ。唇に牙が乗ってしまうことが原因でよく口周りを汚してしまうようだが、本人はその事に気がついていない。夢中になって食べてくれている証左なので、今や黙ってドラルクはその口元を拭うためのナプキンを用意している。
 一番よく思い返す姿は食事の光景だが、ロナルドがドラルクの視線を認識していないという場面に置いて思い浮かぶのは寝姿だった。あの美しい顔貌なのだからさぞ美術品のような美しさなのかと思いきや、すっかり気を許して寝こけるロナルドはよく口を開けていて、口端から涎を垂らしているのをやはり拭ってやったことが何度となくあった。共に任務をこなした後などにそんな姿をシームレスに見せられると頭が混乱しそうになる。つい数時間前まで本人は意図せず、所謂日頃ロナルドが言っている畏怖される存在として君臨するように戦場に立つ不死の王が、蓋を開けてみれば暖かなベッドの上では子どものような面差しで眠るのだから、酷く拍子抜けしてしまう。
 そんなロナルドの姿がフィルム映画のようにドラルクの中で流れる中、一等瞼に焼き付いているのは、太陽を克服してしまった彼ならではの朝陽を浴びる姿だ。初めてロナルドに邂逅した時のことをドラルクは思い出しながら傘縁にかかる曇天を見上げる。夜通しの攻防の末にドラルクの目の前に立ちはだかり、陽光を背負って現れたロナルドの銀髪があまりにも眩かったことを思い出しながら、ドラルクは瞼を打つ雨に目を細めた。濡れた袖口で顔を拭って、再び足元を見る。
 水溜りに漂っているのは、真っ赤な花弁だった。点々と散っているそれを辿りながら歩く中、まるで何かの寓話のようだとも思う。
「……なんだか追いかけっこでもしてるみたいだな」
 草臥れた身体に鞭を打つようにして歩くことには慣れているが、今回ばかりは日頃の労働とはまた心持ちが異なる。殉教者のような心境なのだろうか、これは。ドラルクは無神論者であるから、何かに祈ったこともなければ己の在り方に嘆いたこともなかったが。
 ロナルドを追うことは今に限ったことでもなく、破天荒な行動に日々振り回され、ほうほうの体であの吸血鬼を追い続ける日々。それでいて今の自分の有様はまるでこうあるべきだと言わんばかりで、己だけが誰より感じられる気配を雨の中に嗅ぎとると、尚更そんな気持ちになって、馬鹿馬鹿しいことだが訳の分からない肯定感に気持ちが奮い立っていく。この気配を追えるのはこの世界できっと自分だけだという、そういった類の肯定感だ。
 ロナルドの匂いは遠くに見えるVRCの方向へと向かっていた。

 煌々と輝くVRCの十字マークに足元を照らされながら、ロナルドは再び薔薇の花束を持ってしゃがみこんでいた。疲れている訳ではない。ここで立ち止まったのはやはりこれまでのあれこれを思い返すためだった。
 この新横浜に来て一頻り暴れたのちにドラルクのバナナケーキがトドメとなって麻酔で眠らされた後、目が覚めるとここにいた。
 思い出しながら頭の中でその経緯を再生するとあまりにも馬鹿馬鹿しくて、一人苦笑いが漏れてしまう。あのバナナケーキをなんで受け取ったのか、そもそもドラルクもどうしてあんなものを差し出してきたのだろう。
 そんなロナルドを迎えに来たのはやはりドラルクで、ガラス越しにロナルドの身元引き渡しに必要な書類にサインをする姿を見た時のことを思い出す。確かにあの時もこうして心臓が勝手に拍動を早めていた。
 ドラルクに出逢って一番にずるいと思うのは、こうして逃げ回る自分の居場所を、ドラルクが絶対に分かってしまうことだ。あの貧弱なダンピールの管理下に入ることはロナルド自身甘んじて受け入れていることだ。けれど生来の能力に関してまではその範疇ではない。
「そうだよ、ずるいんだよな」
 ぽろりと溢れた独り言はロナルドの鼓膜だけを震わせる。この言葉をロナルドはいつもドラルクに向かって吐いていた。
 ドラルクはずるい。いつだって、何でも分かったような顔をして。ロナルドの知らなかったことをたくさん教えてくれた。それは確かに今この街で生きることやドラルクたちと暮らしていくことには必要なことばかりだ。けれど、まるで作り替えられているのが自分ばかりのような気になってくる。
 吸血鬼の執着というものをロナルドは本当の意味で体感したことがなかったことをつくづく思い知らされた。大切なものを当たり前に大切にするということを、なるほどこれが執着だろうと勝手に認識していた頃とは、訳が違う。
 ドラルクに対する執着が、本末転倒なことに一番ロナルドに死を感じさせ、そしてそれを忌避させる。死んで蘇りたいという念願はロナルドの中に今でも確かに存在していて、それをいつか達成することがロナルドの目標だ。その為にこの街に来た筈だった。だからこそ楔のように刺さるドラルクの存在が憎らしく思えて、ロナルドは腕の中の花束を掻き抱いた。雑に抱え続けているために花弁はどんどん散っていく。
 食事の味、ベッドの温かさ、夜明けに見る真っ白な隊服の後ろ姿。全てがロナルドにとって不可欠のものになっていって、離れがたく、それを失った時のことを想像して吐き気が込み上げるほどになってしまっている。
 それらはいつか絶対に失うものだ。ドラルクはダンピールで、人間よりはいくらか長生きする種であるとはいえ、あの貧弱さでは望むべくものも望めない気がする。そういったことを抜きにしたって、精々といった年月しか見込むことができない。そして、ドラルクがそれについて考えていない訳がない。考えていて、もしもドラルクが自分だけでその答えを用意しているならば、ロナルドはすぐにでもドラルクの傍を離れてしまいたかった。それは違うと、漠然と思ってしまう。
 鈍色の雲に少しずつ隙間が出来てくる。雲間に見える空は夜と朝の狭間の色になっていた。ついと顎先を上げて雨を浴びながら目を閉じると、朝の匂いが漂っているのが分かった。吸血鬼にとっては、死の匂いだ。
 梅雨時の重苦しい雲の下で、朝焼けの中ぼやける視界に映った真っ白な服と口に入れた甘やかさと、低く耳心地の良い声を思い出す。
「そういえばあれって本当、なんだったんだろうな……」
 不死の王よ、とかなんとかいうあのセリフ。ロナルドは監視下に置かれてすぐの頃に、あれは何だったのかとドラルクに聞いたことがある。ドラルクはあれに深い意味などなく、侵攻してきた正体不明の吸血鬼を畏怖してやって足止めするのに咄嗟に出てきた言葉だとか何とか言っていた。けれど、そんな話を平静な声で返すドラルクの表情は思い出せない。ロナルドに背を向けて答えていたからだ。
「ううん……」
 まだ、もう少し。あともう少しだけあのダンピールから逃げるためにロナルドは再び立ち上がると、ふわりと念動力で浮いて二度屋上の床を蹴って建物の裏手側を目指す。
 こんなに胸の内に溜め込んでしまったものをどうしたいのかを伝えなければならないし、どうすればいいのかを聞かねばならない。それには時間がいくらあっても足りないくらいに必要だった。
 貧弱なダンピールの気配などロナルドには分からず、追いかけてきているのかどうかも知る術を持たない。
 地面に降り立つと、今度は無性に走り出したくなって、ロナルドは走ってみることにした。雨粒が全身を叩く。花束を包む紙はもうすっかりくしゃくしゃになって、今にも破れ落ちてしまいそうだった。
 何故だか涙が溢れる。花弁と涙を振り撒いて走る。自分を苛むダンピールの「これから」を奪い続けていくことが、正に吸血鬼らしさなのかもしれないとロナルドは思った。ならばやはり、自分という吸血鬼は、いつか絶対にあのダンピールに殺されなければならない気がする。
 それがいつになるのかは、今はわからないけれど。

 雲間から朝日が差し込み地面に降りる。梯子のような陽光が映る水溜りを爪先で叩いて、ドラルクはそこに辿り着いた。この街の中でも異様な大きさを誇る公園で、昼間は市民の憩いの場となる公園だった。あの大侵攻の夜、ドラルクが対策本部を設置し、ロナルドたちを迎え討った場所でもある。
 点々と続いている水溜りと、その水面に落ちて漂う赤い花弁の先に、ぽつんと小さな背中があった。階段縁に腰を下ろしいるその背は、だだっ広い場所で見ているためか余計に小さく見える。ドラルクは傘を下ろして畳む。雨はすっかり上がり、昼頃には梅雨時には珍しい晴天が広がりそうだった。
 真夜中の追いかけっこが日の出と共に終わろうとしている。恐らく今日のところは、鬼は捕まってくれるに違いないが、きっとまたこれからも何度も逃げ出してしまうし、自分もまた何度もそれを追いかけなければならない。本当に厄介な存在を愛してしまったものだとドラルクは小さく嘆息しながら、その背中を目指した。
「ロナルド君」
 数メートルのところで声をかけてみたが、聞こえているだろうにその背は微動だにしない。否、正確に言えば震えているので動いてはいたが、頑なに振り返ることを拒んでいた。年齢に比してやけに幼さを残す吸血鬼に、酷いことをしてしまっていると思う。何の当てもなく保証もできないまま、それでも「これから」を不死の吸血鬼に突きつけてしまっているのだから。
「ロナルド君」
 呼び掛けに対して返事は返ってこない。代わりにぐずぐずと鼻を啜る音が聞こえてきて、仕方なくドラルクは二段ほど階段を降り、同じ段差に腰を下ろした。当然地面は濡れているが、もはや二人揃ってすっかり濡れ鼠のような有様になっていたから構うことなどない。
「ロナルド君」
「……なんだよ」
 ずび、と鼻を啜るロナルドに手を伸ばして、濡れて降りた前髪を掬って後ろに撫でつけてやる。それでまたロナルドはじわじわと大粒の涙を下瞼に溜める。それはあっという間に頬を伝い落下して、半分ほど花弁の散った花束を濡らした。
 ドラルクはポケットに押し込んでいた箱をもう一度取り出し蓋を開けて、今度は指輪を手のひらの上に乗せてロナルドの前に差し出した。
「私と結婚してくれない?」
「……」
 ロナルドの唇がぎゅっときつく引き結ばれる。ほとんど睨むような視線で指輪と見比べられながら、ドラルクはロナルドの言葉をいくらでも待った。
「……お前さあ、転化、とか、しようとか思ってたりすんのか」
「ううん……それは直ぐには決められそうもない。この能力は仕事に使っているし、君のことを追いかけられないのは困るからな」
「……ふうん」
 転化すると答えたところで手放しに喜んでもらえると思ってはいなかったが、曖昧な答えは更にロナルドを不安にさせるかと思いきやそれはどうやら違ったらしい。鼻を啜りながらも、ロナルドは口元をむずむずとさせている。どうやら嬉しかったらしいのが分かりやすく伝わってきたが、この回答のどこがロナルドを喜ばせたのかはさっぱりわからなかった。
「そうだな、少なくとも今提示出来るのは三十年かな。全然足りないだろうけど」
「足りねーよ。……俺のことどうしたいんだよ本当に」
「君はどうされたい?」
「……っはー……本当に、お前って……」
「私だってこんなことになると思わなかったんだからさ」
 仕方ないだろう、と返してやればまたロナルドは口元を歪ませるので、この子も大概だなと思いながらドラルクはそれを口には出さなかった。
「……ん」
 ロナルドは小さく呟いて、左手をドラルクの前に差し出した。その薬指に濡れた金環を嵌める。サイズは寸分違わないが、すぐにその存在がロナルドに馴染むことはない。
 ロナルドは手を宙空に翳して、ドラルクにも見えるようにひらひらと動かして見せる。雲間からの陽光がちょうどその手を差したので、光があちこちに反射して飛んで、疲れた目には少しきつかった。痛むほどの光を見上げる。
「今は、これで我慢してやるよ」
「うん、それはよかった……」
 その言葉を聞いた途端にかくりと首が落ちてしまう。早く帰って、風呂に入り体を温めて、柔らかいベッドに横たわりたい。穏やかな悲鳴をあげる身体を今からまた引きずるようにして帰宅しなければならないことを想像し、ドラルクは深々と息を吐いた。
「担いでやろうか?」
「うーん……いや、歩いて帰るよ」
 魅力的な提案ではある。しかし見た目が悪い。今日のところはこれ以上ロナルドにみっともないところを見せたくなかったので、ドラルクはそれを断り、傘を杖のように突いて立ち上がった。腰を緩く逸らすと、同じようにロナルドが隣で立ち上がって「本当にいいのか?」と伺ってくる。
「大丈夫だよ。それより、はい」
 右手を差し出すと、ロナルドはぱちぱちと瞬きを繰り返した後に顔を真っ赤にする。今更手を繋ぐくらいでもこれほど動揺してくれるのだ。それでドラルクは一層気分がよくなり、ほんの少しだけ重たい体が軽くなったような気がした。
「今すっごい結婚したいと思った」
「はあ? ば、バカじゃねーの!」
 そんな悪態を吐きつつも指輪の嵌まった手が重ねられる。繋いだ時にちょうど中指の先でそれに触れられることをドラルクは今、初めて知った。
「目が覚めたら、バナナケーキでも作ろうか」
「うん、食べたい」

「……ん」
 随分と懐かしい夢を見ていた。ロナルドが夢現から目を覚まし体を起こすと、お気に入りのブランケットがずり落ちる。ぬくもりの残るそれを抱き寄せながら周囲を見回した。
「……ドラ公?」
「おはよう、ロナルド君」
 衣擦れの音を立てながらドラルクは隊服に袖を通し、その上に真っ白な分厚い外套を羽織る。流れるような動作で頸の襟口に指を差し込んで、中から一筋に結った髪が引っ張り出されて背に落ちた。ロナルドはそれを見てようやく、先ほど見ていたものがかつての夢であったことに気がついた。
「今から、仕事?」
 普段は夜のうちに出ることが多いが、今は夜が明けて幾らか時間が経っている程度の太陽の高さだ。珍しいな、と思いながら見上げていると、ドラルクが不思議そうな顔で振り向いた。
「……もしかして忘れちゃってる?」
「へ?」
「今日、私の退任式なんだけど」
「たいにんしき……」
 あ、とロナルドの口から間の抜けた声が漏れる。そう、そうだ。今日はドラルクが、吸対を辞める日だ。そんな大切な日を、どうして忘れていたのだろう。自分が何の支度もしていないことにも気が付いて、ロナルドは軽くパニックを起こし掛けた。
「ああ、いいよ。大したことでもない。夜には帰ってくるから。君はお留守番しておいで」
 まるで子どもに言い含めるように告げるドラルクは着々と支度を進めていく。大したことじゃないわけがない。今やドラルクは、吸対のそーかんという、一番偉い役職になっていた。
「……俺、行かないほうがいいか?」
「え?」
「吸対のそーかんの退任に、吸血鬼が行ったらおかしいよな……」
「なんだ、久しぶりだなそういう感じは」
 ぎし、とベッドのスプリングが揺れる。ベッド縁に腰を下ろしたドラルクがふっと笑って、ロナルドの肩に下がる髪を一筋掬い取った。寝癖で絡んだそれを痛まないよう指先で丁寧に梳いて、再び肩に下ろす。
「ついてきてくれるのかね?」
「行って、いいなら……」
「なら君の支度もしないと」
 手伝うよ、と言ってドラルクはクローゼットからロナルドの一張羅を取り出し始めた。外套に、ラペルドベスト。ドレスシャツにタキシードパンツ。見慣れたそれらがベッドの上に並べられていくので、順に手に取って身につけていった。
「俺、いつもの格好でいいのか?」
「君のこの格好は吸血鬼の正装だろう?」
「そうだけど」
「私も君も、今日まではいつも通りに出勤しようよ」
「……うん」
 言われてロナルドはベッドから降りて、タキシードパンツに足を通しながら考える。そうだ。今日までは、今までと同じように。その思考の次には、自然と思い浮かぶ言葉があった。
 じゃあ、明日からは?
「昨日、昔の夢を見てね」
 ドラルクが何の気無しに話し始める。真正面でその顔はロナルドに比べてずっと変化してしまっていた。歳を重ねたことで髪が伸びただけでなく、目元には皺が刻まれているし、以前よりも細くなった首元は老いを否応無く感じさせる。最近は老眼が酷いと言って、時々眼鏡もかけるようになった。けれど、ロナルドの指に嵌まった金環と同じ色の瞳はずっと変わることがない。ドラルクの金色は、この三十年の間ずっとロナルドに向けられてきた。
「昔の夢……?」
 ロナルドの繰り返しの言葉にドラルクはうんと頷いて、ロナルドの左手を掬い取る。ドラルクの左手、その枯れ枝のような薬指にも同じく輝く金環が嵌っていた。
「今すごく、ロナルド君と結婚したいなぁと思ったんだ」

 さあ。私たちの、これからの話をしようか。

                 fin