ふらりと訪れた昼の新横浜署は、当然だが夜間に比べて人手が多い。昼間に正面から堂々と現れた吸血鬼の姿に、ある者はぎょっと目を剥いて、ある者は慣れた様子で手を挙げて挨拶をしてくるので、それらに満遍なく会釈や手を振り返して、ロナルドは署内を歩いていった。
入口で一応の身体検査も受けるが、初老の署員はすっかり顔見知りになっていた。お疲れ様、と声をかけて、先程買ってきた今川焼きの箱を一つ差し入れると、おおこれこれ、と喜んでくれたのが嬉しくて、ロナルドはもう一つの箱もうっかり潰さないようにと外套の下で抱え直した。
階段を登って、四階になると通常の警察官の服装とは異なる白の制服を纏った署員が廊下のあちこちに立っていた。二階と三階の人手に比べると署員の数が少ないのは、ここが吸血鬼対策課のフロアだからだ。彼らは主に夜間勤務のため、日中こそ体を休めるために帰宅していることが多い。証拠に、見慣れた署員は殆どいなかった。下階に比較してもあまりマジマジと見られることがないのはいいのだが、この様子ではもしかすると本当に顔見知りがいないかもしれない。持ってきた今川焼きは冷蔵庫にでも入れてもらって、後で温めて食べてもらえばいいやと考え直し、ロナルドは気にせずてくてくと廊下を進んでいった。
廊下の一番奥、北側に位置するドラルク隊の隊員たちが常駐する本部の前に立ち止まって、ドアノブをそっと回す。顔を覗かせて中をのぞき込むと、ふわりとコーヒーの香りが鼻腔を擽った。
並ぶデスクの間に、人影がひとつ。大きく伸びをして、更にはふあーーっと大きな欠伸をしているのが見えた。
「えっと、こんにちは」 「あ、ロナルドじゃん」
そこにいたのは隊員のマナブだった。ぎし、とキャスターチェアを鳴らして立ち上がって中に入るよう促してくれたので、ロナルドは外套の下から今川焼きを出して差し出す。
「えっ、なになに? お土産?」
「うん」
「えーすげー! 前は窓ガラス割って入ってきてたのに、土産持ってくるようになるとか感動なんだけど」
あけすけな物言いに、う、とロナルドは顔を引きつらせる。確かにこの新横浜署に来たばかりの頃は、とかく世間のことを知らず、その辺を念動力で飛んでみたり、物珍しい標識をうっかり引っこ抜いたり、署に遊びに来る時はこの詰め所の奥にあるドラルクの部屋の窓ガラスを叩いて割ったりしていた。窓ガラスを割ったのはわざとでは無く、ノックしようとしたら割れただけだったのだが。
そこから人間社会での生き方を、一から十までドラルクに叩き込まれて、ロナルドは今こんな形に納まっている。やれ来る時は玄関から入れだとか、やれドアをぶち壊さないように入室しろだとか、今考えればドラルクは呆れもせず諦めもせずロナルドにこの街での生きていき方をそれはそれは懇切丁寧に教えてくれた。今でも時折街中で物損事故は起こしてしまうが前ほどでは無い。勢い余ってとか、仲間たちと街中でハイになった時とか、あとは退治人や吸対の仕事を手伝っている時に限っている。筈だ。
「一個食べちゃえ~」
「別にいいけど……あれ、ドラ公は?」
「隊長なら食堂行ったよ」
「食堂?」
こて、と首を傾げる。ロナルドが主に用事があるのはここドラルク隊の詰所がある四階ばかりなもので、署内にあまり明るくない。マナブが今川焼きを頬張る前に、行き方を聞くと、すんなりと教えてくれたので、恐らく立ち入りが禁止されているわけではなさそうだった。
マナブが言うには、食堂は地下にあるらしい。地下などというものがある事をロナルドは初めて知ったので、ほんの少し冒険心が湧く。一般人が行っていいものなのかを聞いたら、マナブから「お前一般人のつもりだったの……?」と辛辣な言葉を返されたため、行かない理由が無くなった。
そして、ロナルドは食堂前にたどり着いた。
真っ黒な外套に身を包んだ身長百八十センチの吸血鬼が視線を集めない訳もなかった。しかも今は昼時。流石にここまで来ると居た堪れないものを感じたが、ともかく目的の人物を探すべく、爪先立ちになって辺りを見回した。通常の警官服に、私服、そして吸対制服の順での割合なので探しやすそうなものだったが、昼時ということもあり、なにせ人手が多かった。しかしロナルドは、逆にこの衆目が、向こうから自分を見つけてくれるような気がしたので、大声で呼ぶことだけは差し控えることにする。
「ロ、ロナルド君!?」
「あ、ドラ公ー」
案の定、騒ぎの波紋はあっさり伝わってくれたようだった。ロナルドは声のする方へ振り向いて目当ての人物を見つけると、するすると人の間をすり抜けてドラルクの前に立った。
「ど、どうしたの?」
「ドラ公がここにいるって聞いたから」
ドラルクを見るとつい心が浮き立つのが抑えられない。そんなロナルドを見返したドラルクが、ぐ、と妙な声を漏らした。
「しょくどーってご飯食べるとこなんだろ? ドラ公もご飯食べに来たのか? いつもここで食うのか?」
「え? あ、ああ。うん。そうだね。偶に来るよ」
「そうなんだぁ……」
視線は相変わらず集まったままだったが、ロナルドは気にせず食堂の中をきょろきょろと見回し、そしてすん、と鼻をきかせた。ラーメンに、カレーに、そばの匂いもする。広い空間にテーブルと簡易椅子がずらりと並んでおり、奥には大きなキッチンスペースがあるようだった。自然、たらりと唾液が溢れてしまう。
「……何か食べる?」
「えっ、いいのか? お、俺吸血鬼だけど」
「いいよ、別に。お金さえ払えば誰でも食べていいんだよ」
そう言って、ドラルクが向かったのは文字の書かれたボタンがずらりと並んだ箱の前だった。数人が同じように並んでおり、順番はすぐにやってくる。
「なにこれ?」
「食券の券売機だよ。何食べたい?」
「あっえ、えっと……ドラ公は?」
「日替わりがサバ味噌定食かコロッケ定食か……サバ味噌かな」
「えと、じゃあ俺コロッケがいい」
「はいはい」
ドラルクが財布を取り出して、手早く操作していくのをじっと見る。なるほど、血液パックの自動販売機みたいだなと思いつつ、出てきた小さな食券を受け取った。
「おいで」
こっち、と促されて、今度は先程見えた大きなキッチンスペースへと向かう。後を着いていくと、ドラルクはなんだかどこに行ってもドラルクのままだった。後ろ腰で手を組んでカツカツと踵を鳴らして堂々と歩くと、こんな痩せた男を少し苦い顔をして何人かが避けていった。中には明らかに嫌な顔をしている者もいたが、ドラルクは何故か急に上機嫌になったらしく、変な鼻歌まで嘯いている。
「すみません」
「はいはい! あら、隊長さん久しぶりねぇ!」
声掛けに振り返ったキッチンスペース内の女性がドラルクの姿を視界に入れると異様なほど気さくに話すので、ロナルドは少し驚いた。ドラルクに対してこんなに開けっぴろげな態度で接する人物が、この新横浜署に、吸対以外でいるとは想像していなかった。
「ご無沙汰してました。これ、お願いします。ああ、ご飯は半分でお願いします」
むしろドラルクの方がどこか敬意を払っているようにすら見える。そんなドラルクに対して女性は「あんたそんな痩せてるんだから、もっと食わないとダメだよ!」とまで言い放っているが、ドラルクは特段気分を害した様子もなく笑っていた。
「あら、今日は随分いい男連れてんのねぇ?」
奥から顔を覗かせた女性が身を乗り出してきて、ロナルドの方を見上げてきた。少しだけ緊張して、ついドラルクの後ろに隠れてしまった。
「あ、あの」
「はい、彼の分。こっちはご飯多めで」
「まー! ホントにいい男! コロッケおまけしてあげるわぁ」
「えっ、や、やったぁ」
「よかったねぇ」
名前は? 吸血鬼なのかい? どっから来たの? などの質問責めを受けているうちに、カウンターの上に二つの定食があっという間に用意される。ロナルドの皿には揚げたてのコロッケが五つも乗っており、ドラルクは「サービスが過剰すぎだ」と苦笑いしていた。
「それ持って、こっちおいで」
ドラルクは自分の分を持つと、女性達に感謝を述べて踵を返した。ロナルドはキッチンにいる女性たちにぺこ、とお辞儀をして(また来なさいね! と言われた)自分の分のトレーを持ってドラルクを再び追いかける。
空いているところならばどこに座っても良いらしく、ドラルクが「そこ座って」と指した場所に腰を下ろす。向かい側に回ってきたドラルクも、普段は座らないような簡易椅子に慣れた様子で腰を落ち着けるので、ロナルドにとっては少し、いや大分不思議な光景だった。
「はい、いただきます」
「い、いただきます」
ドラルクはいつも家でやるように、手を合わせてそう言ったので、ロナルドもそれに倣う。
外食に慣れていない訳では無い。基本はドラルクの作った食事を食べるようになっていたが、ここ最近のドラルクは忙しいようで、あまり家に帰ってこれていない。今日も、実はドラルクが昨夜から帰ってこないので少し気になって訪れたのだ。
まさか、一緒にご飯が食べられるとは思わなかった。
「……えへ」
「どうかした?」
「んーん」
なんでもないと返して、ロナルドはコロッケの山にソースをかける。ドラルクも時々作ってくれるが、それ以外のコロッケを食べるのは考えてみれば初めてかもしれない。
箸で大きなそれを挟んで、口に運ぶ。噛むとさく、と良い音が聞こえてきた。中は芋と、すこし挽肉が混ざっているようだった。
「おいしい?」
「うん」
「そう、よかった」
そう言ってドラルクも箸を進めていく。皿の上の魚――確かサバの味噌煮を、丁寧に箸でほぐし、プラスチックの茶碗を片手に口に運んでいった。
「……いつもより食べるんだな」
ドラルクは少食だ。これまでに二回ばかり堰を切ったように多量に食べる場面にロナルドは遭遇しているが、基本的には低燃費で、必要なカロリーの殆どを恐らく頭を使うことに向けている節がある。
「残すと怒られちゃうからね」
「怒られるのか?」
「そうだよ。ロナルド君も残さないようにね」
「う、うん」
ドラルクが怒られるところは少し興味があったが、しかし箸を動かすペースを見るに普通に完食しそうだった。もしかすると完食出来そうだから、ここに来たのかもしれない。いつもより少しばかり食欲旺盛なドラルクに、何故かちょっとだけドキドキしながら、ロナルドは二つ目のコロッケに取り掛かる。
ドラルクが箸で取る量は本当に少ないが、それを口の中に入れてからゆっくり、何回も噛む。普段も家で見ている光景なはずだ。違いと言えば、場所と、隊服をかっちり着ているところくらいなものなのだが。
ドラルクの箸先が魚を解していく中で、中にある骨が一本一本丁寧に抜かれて、皿の端にそっと置かれていく。骨を取り除いたところをまた小さく箸でほぐして、食べる。それだけの繰り返しに、どうしてか視線を奪われてしまう。
「? お腹空いてなかった?」
「う、ううん。空いてる」
じっと見すぎていると手元が疎かになってしまっていた。三つ目のコロッケは、少し冷めてきても歯応えがあったし、美味しさも変わらない。
見る間にドラルクの皿がきれいになっていった。それを追いかけながら、コロッケを頬張っていた時、ロナルドはあることを思い出した。頭の中に浮かんだのは、フォンと何気なく話をした場面だ。
『食べる所作とベッドの中での所作は似てるらしいですよ』
「んぐっ」
「えっ、なに、大丈夫?」
「……う、ん、平気……」
「コロッケ熱かった?」
「う、うん、そう、熱かった!」
「き、気をつけてね?」
ドラルクが、水持ってくるよと言って立ち上がったところで、ロナルドはなんとか堪えようと四つ目のコロッケを頬張る。実はもう暑くないので。
――確かあの時は、フォンと遊びに行ってファミレスに寄った時のことだ。フォンが突然、きれいにご飯を食べる人ってえっちですよねぇ、などと言い出して、しかしそれはいつもの事なのでロナルドは気にせず巨大パフェを頼んで頬張っていた。その話題の最中で、食べ方についての話にまで至ったのだが。
「はい、お水」
「あ、ありがと……」
その時は何にも考えていなかったし、そんな俗説がまさかドラルクと結び付くなどとは思いもよらなかった。何とか頭の中のフォンとのやり取りを振り払って、目の前の食事に集中しようと持ってきてもらった水を一気に喉へ流し込んだ。
最後のコロッケに取り掛かって、よく噛んで、飲み下したところでドラルクの方が先に完食する。最初と同じように手を合わせて、「ご馳走様でした」と言った後に、ドラルクも持ってきていた自分の分の水を一口飲み下した。
「ゆっくり食べてね」
どうやら食べ終わるのを待っててくれるらしい。テーブルに頬杖を付いたドラルクに柔く笑って見返してこられると、頭の中のフォンの言葉が再び否応なく思い起こされる。
「あ、そうだ」
「ん?」
「今夜は日付跨ぐけど、帰れそうなんだ。ロナルド君は家にいる?」
「え、えと、うん。いる」
「そう、明日は私休みが取れたから、ゆっくりしようか」
「! うんっ」
ドラルクの一言で、頭の中のフォンはすっかり吹き飛んだロナルドは満面の笑みで頷いて返した。
その後ロナルドも完食して、ここでは食器を下膳するということを教えられながら、席を立った。キッチンの女性たちにご馳走様でしたと伝えて手を振ってから、再びドラルクと連れたって四階の吸対本部へもどる。夕方頃まで昼勤のマナブと雑談をしたり、ドラルクの隊長室でメビヤツのボディを磨いてやっているうちには夕方になり、見慣れた顔が出勤し、俄に慌ただしくなっていった。その中にフォンの姿もいて、一瞬食堂のことも思い出してしまったため、フォンにはついお土産の今川焼きをあげないと言ってしまった。どうしてですか!? と意外なほど食いつかれたため、最終的にはあげてしまったが。
慌ただしくなる中で、しかしロナルドが手伝えそうな荒事は発生しなかった。そんな中で事務処理のラストスパートに入ったらしいドラルクに先に帰っていていいよと言われたロナルドは、言葉に甘えて帰宅することにした。
昼更かしをしていたせいか家に着いた頃には眠気が強く、ドラルクが帰ってくるまでの間についリビングのソファーで眠ってしまっていた。
ロナルド君、と名を呼ばれて目を覚ますとそこにドラルクがいた。頭を撫でられる感触。頬に触れる少しかさついた手。そして、ぼやけた視界にドラルクの顔がゆっくりと迫ってくる。薄く開かれた唇を見た時に、ロナルドの中で昼間の食事の光景がフラッシュバックした。
「った、たべちゃだめ!」
「えっ、は?」