「はぁ!? 今すぐ!?」
苛立ちに任せた声が吸血鬼対策課オフィスに響き渡る。隣の詰所にいる隊員たち全員の視線が扉に貼り付けられた『隊長室』と書かれた金メッキのプレートに集められたが、直ぐにいつものことか、と目の前の仕事に戻されていく。
「我々現場の人間は、態々こんな電話をかけてくる本部付きと違って忙しいんですがねぇ?」
クーラーのよく利いた隊長室で、吸血鬼対策課隊長のドラルクは電話向こうの相手へ何に包むでもなく嫌味を言ってのける。その険しい目元には、色濃い隈が影を作っていた。
新横浜署管区内各所で行われる夏祭りの数々が残り数個に差し迫ったこの時期。ここ最近は何故かこんな場所でも祭りだ花火大会だとなればそれなりの人手が押し寄せる。そのために署全体が警備のためにほぼ休み無しで出ずっぱりが続いており、しかも新横浜となれば、全国有数の吸血鬼ホットスポットでもある。祭りの度に凝りもせず騒ぐポンチ吸血鬼を取り締まるため、ドラルクももはや指折り数える気にならない程の連日勤務に明け暮れていた。
「ともかく、そんなもんそっちから取りに来て……ああいや来なくていい、こんなクソ忙しい時に接待なんぞに割く時間はないんですよ!」
悪態はいくらでも吐き出される。どうやら電話の相手はあの「本部長」らしい。ドラルクの言を聞くに、本部に何かを至急持ってこいと命令されたのだろう。
隊長室にはドラルクの他、もう一人が在室している。応接ソファーに腰を下ろし、出動待機を命じられている吸血鬼ロナルドだ。
ロナルドも当然ドラルクらに協力して連日の夏祭り会場の警備に参加していた。——していたのだが、途中からロナルドは会場で遊び回る仲間吸血鬼たちの誘いに乗ってしまい、若干の損害を出してしまっていた。具体的には、屋台二軒を破壊していた(ボール投げの屋台でサテツとショットと勝負をしたのだが、ボールを思い切りなげたら衝撃で屋台が半壊してしまい、隣の屋台も巻き込まれてしまったのだ。幸いにして怪我人はいなかった!)そのため、ロナルドは昨夜こってりとドラルクに絞られたばかりである。今回は免れたが、あまり大きな被害を出すと「私は○○を壊しました」などと書かれた間抜けた看板を首から下げさせられることもあるので、しばらくの間は大人しくしておきたかった。
——もしくは、何か役に立つようなことをして、ドラルクの機嫌を取っておくか。
畏怖されるべき吸血鬼がダンピールの機嫌を取るなどというのはある種屈辱的にも思える。しかし、ロナルドとしては実害を回避し、実利を取ることができるのだ。簡単に言えば、ドラルクがギャンギャンと怒鳴ったりしなくなるし、少しくらいはロナルドのやることを大目に見てくれて、その上帰宅後のおやつや食事もグレードが上がるかもしれない。
電話は随分と長引いていた。何を命じられているのかまでは分からないが、これほど長引いているという事は、向こうとしても引けない用件なのだろう。実際のところ、普段であれば割とドラルクの「気分次第」が罷り通ることも少なくないのに、どうにかして何かをさせようとしている。
そしてドラルクが多忙を極めているのも本当のことだった。机の上にある栄養ドリンク代わりの血液錠剤の空は明らかに今月の支給量を超えているだろう。ロナルドも流石に胸がちくんと痛む。仕事を増やしてしまったこと自体は、申し訳ないと思っているのだから。
ならば尚更、かもしれない。
「ああ~っ、だから、そんな時間は……」
ロナルドはジーッとドラルクを見ながら、無言で挙手をする。その視線に気がついたドラルクが、ん? と片眉をあげて、少し考えた末に一点を指さした。そちらにあるものなど目を向けずとも分かる。隊長室に備え付けてある冷蔵庫の方だ。
「〜〜っ!」
あまりにも遺憾で、ロナルドはブンブンと首を横に振った。おやつを強請っているのでは無い。というか態々急ぎの電話中に視線でおやつを求めるほど、ロナルドは非常識ではない。
再度ロナルドは視線をドラルクに向けた。ついでに、自分を指差して口パクも添える。
俺がその用事引き受けてやるよ。
果たして伝わっただろうか。ドラルクが瞳孔の小さな目をパチリと瞬かせる。
「……ちょっと待っててください」
そう言って、ドラルクは一度電話を保留にした。
「……どういうこと?」
「だから、ここで暇なのって俺だけだろ。何するか分かんねぇけど、出来ることなら手伝うって」
「戦ったりあわよくば死ねたりするタイプの仕事じゃないぞ?」
「別にそんなの今求めてねぇよ!」
流石にバカにしすぎだろ! ロナルドはぷぅと頬を膨らませて抗議する。
だが、言っては見たもののロナルドの胸中に不安が過った。果たしてその仕事とは自分が出来るような類のものなのか。そんなことも分からないまま、もしかするとお門違いも甚だしい申し出をしてしまったのかもしれない。吸対の隊員でなければいけなかったり難しい書類作りだったり、ドラルクしか出来ない仕事であれば、ロナルドの出る幕などない。段々とそんな気がしてきて、ロナルドの内心は消沈してきた。
「……ま、まぁ俺が出来ることとか、そんな無いけ——」
「もしもし? その件、ロナルド君にお願いしますので」
「……へ?」
「これ以上は罷りなりませんので、あしからず。では」
ガチャン、と受話器が置かれ、同時にドラルクは深々と溜息を吐いた。
「……ロナルド君」
「う、うん?」
ドラルクは確かに言った。その件はロナルドに頼む、と。聞き間違いではないだろうが、しかしどうしてドラルクの表情は暗いのだろう。
「……今言った通り、私はどうしてもここを離れられないし、他の隊員も皆手がいっぱいだから、君にお願いしたいと思う」
「! うん!」
「お願いしたいってのは、書類を届けることなんだけど」
「そ、それって俺がやっていいの?」
「届けるだけだからね。それに君なら、そんじょそこらのバイク便に頼むより余程信頼出来るさ」
「し、しんらい?」
信頼。その予想打にしないその言葉に、ロナルドの口が勝手に復唱する。よりにもよって大真面目にそんなことを言われるものだから、遅れて耳の先端が熱くなった。
信頼とまで言われてしまえば引き下がる訳にも、失敗する訳にもいかない。ロナルドはぎゅっと両拳を握ってうんと強く頷いた。
「わ、わかった! 俺頑張る!」
「……ちょっとこっち来なさい」
「ん?」
ロナルドがソファーから腰を上げ、デスクの前に歩み寄るとドラルクは引き出しから何かを取り出した。てっきり言われた書類なのかと思って手を差し出す。
「? なんだ、これ」
「ただの指輪だよ」
腕を取られ、右手の薬指に嵌められたそれをしげしげと見る。一体これは、と首を傾げるとドラルクは満足気に頷いた。
「これって何なんだ?」
「吸対本部に吸血鬼の君が行く以上、通行許可証が必要になる。今から発行手続きをしている暇はないからな。それが代わりみたいなものだよ」
「ふぅん」
以前に一度だけドラルクに連れられて吸対本部に行ったことはある。あの時はドラルクが居たので特に問題はなかったが、なるほど、確かに吸血鬼である自分があそこに入るには身元を証明する必要があるのだろう。とにかくそれを見せれば何とかなるからと言われ、ロナルドもよく分からないがそういうものであればと、それ以上追求はしなかった。
「それで、こっちが文書ね」
手渡されたのは一つの封筒だった。受け取ったそれに対する興味はそこまでないため、ロナルドは直ぐにそれをマントの下にしまい込んだ。
「じゃあ、いってくる」
「もう一つ」
「うん?」
振り向くと、やはりドラルクは真剣な面持ちでロナルドを見据えている。何かノースディンへの大事な言伝でもあるのだろうか。
だが、ドラルクから発せられたのは全く別の「約束事」だった。
「寄り道しないで帰ってくるんだよ」
「……俺のことなんだと思ってんだ」
「お菓子とか貰ったり、知らない人についていったりするんじゃないぞ」
「わかった、わかった。もう行くからな」
もはや何も言うまい。ロナルドは諦めてドラルクに背を向け隊長室を後にする。扉を後ろ手に閉めると、隊員たちが一斉にロナルドへと視線を向けてきた。
「あれ? ロナルドどっか行くの?」
「吸対本部に、これ届けてくる」
「へっ? おつかいってこと?」
声をかけてきたマナブの発した「おつかい」という幼稚な単語に、ロナルドはむぅっと口をへの字に曲げる。ドラルクが日頃から五歳児などと揶揄するせいか、どうにもここでは子ども扱いされている節があった。
「仕事だよ」
「あ、ああ〜、そっか、仕事、仕事ね! ……てか、吸対本部ってことは本部長に届けるの?」
「うん」
これ、とマントの下から封筒を取り出して掲げる。だがマナブは聞いてきたくせにその届け物自体には興味がないようだ。
「てか、流石にロナルドだけが行くには許可証とかいると思うんだけど。発行出来てんの?」
「ああ、それならこれで大丈夫って言われた」
そう言って手を掲げ、先程ドラルクに渡された指輪をマナブに見せる。すると、途端にマナブの表情が無に変わった。
「あー……うん、まあ……気をつけてね……」
「え? う、うん」
ひらひらと力無く手を振って見送るマナブや、敢えて目を合わせないようにしている他の職員を不思議に思いつつ、ロナルドは新横浜署を出発したのだった。
「……よっしゃ! 着いたぜ!」
特に何事もなく吸対本部に到着したロナルドは、一応ドラルクへと連絡を入れておくためにメッセージアプリを開いた。
「着いたぜ、と……」
画面をタップして送信すると即座に既読がついて、見ているうちに「気をつけてね」とメッセージが返ってくる。画面を消灯してポケットに捩じ込み、マントの下に入れておいた封筒を手で確認する。途中で落としたりすることもなく運ぶことが出来た。あとはこれをノースディンに渡すだけだ。よし、とロナルドは一人頷き、本部敷地内へと入る。すぐに見えたのは施設警備員がいる小さな守衛室だった。
「あのーすいません」
「……は⁉︎ え⁉︎」
声をかけると、警備員が明らかに動揺した声を発し慌てて守衛室から出てくる。こんな真っ昼間に吸血鬼然とした男が堂々と正面から入ってくるのだから当然かもしれないが、抜きこそせずとも、警備員は腰元に携帯している警棒を今にも構えそうな雰囲気でロナルドに対峙した。
「なっ、何だお前は! こ、ここが何処だか分かって……」
「あの、俺、ロナルドって言います! 新横浜署のドラルクから頼まれて来ました! えっと、ノースディン本部長に渡すものがあって……」
「は? し、新横浜……?」
「うん。これ見せたらいいって言われたんだけど……」
「!」
警備員の驚愕の表情が、今度は恐怖の表情に転じる。確かにこの指輪には効果があるらしい、このリアクションは一体なのだろう。吸対の署員の証明みたいなものだとばかり思っていたのだが。ロナルドにはよく分からないが、ともかく警備員の手が警棒から離れてくれたことには安堵した。
「……ちょっと待っていていただけますか」
「! はい!」
そう言って警備員は守衛室に戻ると、中にある電話を使って誰かと話をし始めた。内容は口元を隠して話しているためよく聞き取れないが、一族がどうこうと言っているらしい。しばらくの間そのやり取りが終わるのを待つことになったが、別段ごねる必要もない。ロナルドは大人しくその場で話が終わるのを待つため、辺りを見回した。
この守衛室以外には人気もない。ゲートバーの向こう側にある大きな建物の方からは人間たちの気配もするし幾人かの視線も感じられるが、新横浜署と比べれば市民の頻繁な出入りもないため、敷地内全体が静けさに包まれている。
その空気感に、ロナルドはほんの少しだけそわりと背筋を震わせた。それもそのはずで、ここはロナルドにとって禁足地とも言える場所だ。視線の中には敵愾心のようなものも感じ取れる。新横浜署のドラルク隊に入り浸っていることで麻痺している感覚が直感的に揺さぶられるが、ロナルドはグッと堪えて警備員の対応を待った。
「……申し訳ありません、お待たせしました。エントランスに案内の者が待っているそうなのでお通りください」
「うん! ありがとう!」
そう言ってロナルドは解錠された安全ゲートをくぐって通ると、最後にもう一度警備員の方を振り向いてぺこりと頭を下げた。
「……随分素直そうな吸血鬼だなぁ……」
警備員の拍子抜けした声はロナルドの耳には届かなかったが、ともかく第一関門を突破した気になったロナルドはスキップ混じりで本部の建物へと向かう。
入口の回転ドアにやや緊張しつつも、先程の警備員にきちんと「お通りください」と言葉にして貰えていたので、以前ドラルクと入った時を思い出して中へと足を踏み入れた。
中に入ると広々としたエントランスと、その中央で黒衣に身を包んだ男の姿が視界に入った。
「あ、クラージィさん! こんにちは!」
「……コンニチハ」
出迎えたのは、ノースディンの右腕であるクラージィだった。唯ならぬ空気を纏う男で、何でもこれまでに何人もの吸血鬼を屠ってきたらしい。
「コチラニ来イ」
挨拶もそこそこにさっさとクラージィはロナルドに背を向けエントランスの奥にあるエレベーターの方へと歩いていってしまう。慌ててそれを追い掛けながら、ロナルドはキョロキョロと辺りを見回した。
「……えっと、クラージィさん」
「ナンダ」
「今度俺と戦っ」
「断ル」
相当に腕が立つこの男であれば自分を殺してくれる可能性があるだろうことを以前から考えていたのだが、ロナルドの思い切った提案はあっさりと却下されてしまった。ロナルドは肩を落としかけたが、ダメで元々だったためもう一度気を取り直して面を上げ、先を歩くクラージィの背へと言葉を続けた。
「えっと、あの、じゃあ、……今度仲間とタコパするんだけど、来ませんか?」
「……タコパ?」
歩きながらではあったが、クラージィがほんの少し振り向いて視線を寄越してくれる。
「たこ焼きパーティ! えっと、こう……丸い窪みがある鉄板で生地焼いて、タコが入ってて……楽しいんだぜ!」
「……考エテオク」
「! うん!」
それは、今引き出せるであろう最大限の色良い返事だった。何となく、この人とは仲良くしてみたいという直感からの提案だったし、それが完全拒否されなかっただけでロナルドとしては上々の結果と言える。自分の仲間と言えば吸血鬼だらけの場所に案内する訳だが、きっとクラージィと自分の仲間達は気が合う筈だ。ロナルドは楽しいパーティの光景を想像しながら、長く冷え冷えとした廊下を歩いていった。
やがて大きな両開きの扉の前でクラージィが足を止めたので、ロナルドも倣ってその後ろで踵を揃えて立つ。以前はドラルクが適当にノックしてずかずか入っていったが、クラージィは当然そんな無作法はしない。三度、短い間隔のノックをした後、すぐに中から「入れ」という声が返ってきた。
「失礼シマス」
片側の扉を押し開けられる。ロナルドはやや緊張した面持ちになって、クラージィの後ろをすごすごと着いて中に入った。
「吸血鬼ロナルドヲオ連レシマシタ」
「ご苦労」
扉向こうの更に奥の、デスクに座っているノースディンが仰々しい動作で席を立って出迎える。新横浜署とは随分空気が違っているし、ノースディンの視線にはあからさまな敵意が乗せられている。吸血鬼嫌いだというのが聞かずとも分かる視線に、ロナルドはついクラージィの背後に隠れてしまった。
「……ど、どうも……」
一応頭を軽く下げる。その相手を凍りつかせるような視線が苦手で、前に来た時も殆ど会話を交わすことは無かった。ノースディンと会う時は必ず傍にドラルクがいて、ノースディンにとって用があるのはドラルクだったため、ロナルドが話をする必要が無かったとも言える。いたたまれず、ロナルドはそぅっとノースディンから視線を外して部屋を見回した。まず目に入るのは、大きな肖像画だ。ちょっとだけドラルクに似ている、吸対の人。ドラルクの祖父であり、吸対の創設者なのだと聞いている。初めてこの肖像を見た時からどこかで会ったことがある気がするのだが、ドラルクの親族なのであれば覚えがあるのは当然なのだが——。
「吸血鬼」
「……えっ? 俺?」
「当たり前だ、さっさと書類を寄越せ」
そうは言ってもノースディンがデスクから離れる様子は無い。ロナルドの方から来いということなのだろう。ちらとクラージィに視線を向けると、軽く顎をしゃくって行ってこいと促されたので、ロナルドはマントの下から書類を取り出し、恐る恐るノースディンのデスクの前に立った。
「……はい」
「……ふん」
ロナルドの手から書類を入れた封筒が受け取ったノースディンは、中身を取り出して確認し始めた。
「中身を見ていないだろうな」
「? 見てないけど」
そう返したところでノースディンが信じた様子はなく、どうだか、と言わんばかりに肩を竦めて書類を封筒に仕舞い直すだけだった。
「全くドラルクめ、吸血鬼に重要な書類を預けるなどどうかしている……」
「……ドラ公は、俺の事信頼出来るって言ってくれたけどな」
そのロナルドの言葉に、ノースディンが顔を上げた。苦虫を噛み潰したような顔を向けられたが、ロナルドも負けじと「ふんっ」と腕を組んで見返す。
嫌いならば嫌いで構わない。どこかの吸血鬼によほど嫌な目に遭わされたのかもしれないし、それはきっと災難だったのだろう。とは言え、こうして自分は無事に遣いを果たしたのだから、その判断をしたドラルクは別にどうかしている訳では無いはずだ。
「別に俺のことはどうでもいいけど、アンタってドラ公の師匠なんだろ。アイツそこそこ頑張ってると思うけどな」
そう言うと、ノースディンの下瞼がひくりと引き攣るのが見えた。何となくそういう仕草が似てるよなぁと思いつつ、ロナルドはくるりと背を向ける。もう用は済ませたのだから帰るまでだった。パチリと目が合ったクラージィがほんの少し笑ったように見えたのは気の所為だろうか。
「……待て」
だが、後ろからかかる声に足を止める。まだ何か言いたいことでも有るのだろうか。もし嫌な事を言われるなら、逃げちゃおうか。そんなことを考えつつ、ロナルドはもう一度ノースディンの方を振り向いた。
「……クラージィ、紅茶の用意だ」
「ワカリマシタ」
「吸血鬼、お前はそこに座れ」
「へ?」
「座れ」
そう言うと、ノースディンは席からデスクを離れると上衣を脱ぎ執務椅子の背凭れにかけ、つかつかと部屋の応接ソファーの傍に寄って来た。もう一度「座れ」と言って睨みつけてくるので、ロナルドは仕方なく言われた通り、その応接ソファーに腰を下ろした。
やがてティートロリーにお茶のセット一式を乗せて持ってきたクラージィが戻ってくる。ロナルドは一体何が、という思いでそれを見上げたが、やはり表情からは何も読み取れないままクラージィが何故か頷いた。何の頷きなのか図りかねていると、ティートロリーの前にノースディンが立ち、カチャカチャと最小限の音を鳴らしながら紅茶を淹れ始めてしまった。
「……来客のもてなしくらいはしてやる」
「ら、来客……?」
ロナルドは自分を指差して首を傾げた。まさか、己が客として扱われるているのかと問いかける視線を投げ掛けたが、すげなく視線を逸らされてしまう。いよいよ居心地が悪くなって、ロナルドは座り慣れないソファーでそわそわと落ち着かない心地で周囲を見回すしかなくなってしまった。クラージィに至っては何故か隣に座って静かに茶が供されるのを待っている。これは一体どういう状況なのか。ドラ公のじいさん、これってどゆこと? と肖像画にまで助けを求めてしまうが、当然答えるはずもない。
やがてじっくりと時間をかけて淹れられた紅茶がシンプルなカップに入れられて目の前に供された。ついでに添えられたのはいつの間にか準備されていたスコーンで、ジャムとクロテッドクリームが添えられたそれはきちんと温められているらしく、香ばしい匂いが室内に漂っている。
「……」
「どうした、遠慮するな。マナーなど求めておらんから好きにしろ」
「お、おう……」
仕方なくロナルドはそれらに手を伸ばしながら、何となくドラルクと出逢った時のことを思い出す。紅茶を一口、そしてスコーンは半分に割って、ジャムから先に乗せ、その上からクロテッドクリームを乗せてみた。
「英国式を知っているのか」
「? 知らねぇけど、ドラ公が作ってくれた時にこう食べるって教わったぜ」
「……そうか」
どことなくノースディンの表情が一瞬和らいだように見えたのは気のせいかもしれない。ともかくロナルドは、チラと横目で、隣で既にスコーンを口に運んでいるクラージィを見やってから自身もそれに口を運んだ。
「……!」
ロナルドは目を見開いた。クロテッドクリームのなめらかさとストロベリージャムの甘み、スコーン自体の香ばしさが口の中に広がる。それはシンプルに美味しかった。以前ドラルクに作って貰ったものと同じくらいか、それ以上だ。
「んんん!」
「口の中にものを入れたまま喋るな」
スコーンを咀嚼してから先程飲んだ紅茶にも再度手を伸ばす。すると、紅茶の味わいが格段に上がっているのがわかる。これがお茶と合うってことか、とロナルドは体感したものに素直に感動した。
結局スコーンは更に追加で二つほど提供され、それもぺろりと平らげてしまった。食べ終えたところでロナルドはハッとして、置かれていたナプキンで慌てて口元を拭う。
「……ふん、今日は作りすぎていたからな、帰りに持って帰れ」
「うん! ありがとな! ドラ公にも渡すぜ!」
そうして、思わぬお茶会はお開きとなった。決して和気藹々などという空気になることはなかったが、仕事をやりきったロナルドの胸中は充足感に満たされている。
帰りも同様にクラージィがエントランスまで見送りをしてくれた。
「マタ来ルトイイ」
その言葉にロナルドは逡巡する。こんな機会でも無ければロナルドが一人でここに来ることは無いだろう。何せここは、本来であればロナルドにとっての禁足地、吸血鬼対策課本部だ。
しかし、持たされた紙袋の隙間から漂ってくる香ばしい匂いがロナルドの鼻先を擽ってくる。またこれが食べられるなら、たまには顔を出してもいいかもしれない。
「うん、またな、クラージィさん」
「……あの、バカ弟子……」
窓辺に立つノースディンは正面出口から帰っていくロナルドの後ろ姿を見ながら頭痛を覚える頭を抑える。事前の連絡で吸血鬼に特別な通行許可証を渡しておいた、などという連絡があった時点で、嫌な予感がしていたのだが。
頼んだ仕事は確かに緊急性の高いことだった。とはいえ、迂闊だったと言わざるを得ない。はぁ……、と深く長い溜息を吐いたノースディンは、これをドラウスに報告すべきかどうかの葛藤に苛まれるのだった。
肩の荷が降りた心地でロナルドは足取り軽く帰路を歩いていた。果たして自分がどんな書類を運んだのかは分からないが、それがあの美味しいスコーンに化けたのだから尚更気分が良い。
「……あ、でもお菓子貰っちゃったじゃん!」
ドラルクから言い付けられたお小言を思い出したロナルドは、腕に抱えたスコーンの詰まった紙袋を見下ろす。これを見たドラルクからますます子供扱いされる様を想像して悔しさと腹立たしさが湧き上がってくる。
というか、何故ドラルクは自分を子ども扱いするのだろうか。齢で言えば自分の方が年上だというのに、あの貧弱ダンピールときたら。そして、そんな扱いに悪い気がしていない自分も、どうしてなのだろう。
「……」
何だか最近、ドラルクの事を考えていると心臓の辺りが擽ったくなる。ロナルドはふるふると頭を振って思考を強引に止めた。
とりあえず用事も終えた事だし、電車を乗り継いで新横浜署に帰らなければ。行きの電車同様、周囲の視線を集めていることに気が付かないまま、ロナルドは最寄りの駅を目指した。
人通りの少ない歩道をてくてくと歩いていると、ロナルドの横を通り過ぎた一台の車が少し先で停車する。特段気にすることなく歩いていくと、車の横を通りがかったところで後部座席のパワーウィンドウが開いていることに気がついて、ロナルドはちらりと横目をそちらに向けた。
その後部座席に座っていた人物と、パチリと視線が噛み合う。
「やっぱり。ドラルクのところの吸血鬼じゃない」
「へ? ……あっ!」
中に座っていたのは、時折新横浜署に訪れてはドラルクと口論している女性——セデューマだった。
「セデューマさん。えと、こんにちは」
「こんにちは。どちらに?」
「え? あー、俺は今吸対本部に届け物してきて……今から新横に帰るとこ」
「あなたが? 吸対本部に?」
セデューマはその目をパチリと瞬かせる。いつもドラルクとやりとりしている彼女は蛇を思わせる鋭い視線と厳しい表情をしていたので、その反応は意外なものだった。
「……ふぅん、なるほどね。いいわ。乗りなさい」
「へ?」
「新横浜に戻るのでしょう? 私もそちら方面に用事があるの。送ってあげるわ」
「えっ、えっ?」
「さっさとなさい」
どうやら送り届けることが既に確定事項になっているらしく、そう言って彼女は席の奥へと体をずらしてしまった。仕方なくロナルドはガードレールを跨いで、セデューマの乗る後部座席のドアを開ける。ロナルドが急いで乗り込み広々とした席に腰を下ろしシートベルトを締めたところで、セデューマが運転席の男性に「出してちょうだい」と声をかけ車が発進した。
「それは?」
「ああ、これは」
セデューマの視線がロナルドの両手の中にある紙袋に向けられる。ロナルドは二つ折られていた紙袋の口を開け、その中身をセデューマに示した。
「ノースディンが作ったスコーン。セデューマさんもい……」
「結構よ」
言い終わる前に鋭く挟まれた言葉にロナルドはビクリと体を跳ねさせた。それを見たセデューマがハッと眉間の皺を弛め、慌てた様子で手を振る。
「悪かったわ。気に食わない名前を聞いたものだから、つい」
「そ、そうなんだ……お、俺もごめんなさい」
「本当に気にしないで頂戴。届け物ってアイツにだったのね」
どうやら名前すら言いたくないレベルらしい。ノースディンといいドラルクといい、一体何をしたらここまで嫌われるのだろうか。
しかしあまりその点を深掘りするのは、地雷を踏み抜くことになりかねない。かつてない緊張感の中、ロナルドは無難な話題を探した。
「あ、あの! セデューマさんは何しに新横に行くんだ?」
「VRCに収監されてる吸血鬼に事情聴取しにいくところよ。そういえば、貴方が確保した吸血鬼だったかしら」
言いながらセデューマは座席に置いてあったカバンから書類の束を取り出し捲り始めた。ドラルクが言うには、セデューマは吸血鬼専門の検察官をやっているらしい。なので時々新横浜にも姿を見せることがあるのだが、ロナルドは来る度にドラルクに辛辣な言葉を吐いて去っていく姿しか見たことがない。少し怖い女の人という印象しかなく、紙面に視線を落とすその横顔を見ながら、ロナルドは話題逸らしに成功したことに内心で安堵しながら会話を繋げた。
「俺が? ……あー、先々週くらいの夏祭りで騒いでたヤツか。確か、変な催眠使ってた……」
「ええ、報告書には夏祭り会場で道行くカップルに不和を増長させるような催眠をかけてたって書いてあるけど……何よ不和の増長って」
「ああ、確か隠し事があるとそれを言っちゃう催眠だったかな」
「へぇ、そんな有用な能力、どうして夏祭りを騒がせるために使うのかしら」
「カップル限定の能力だって言ってた」
「何よその限定……全く、新横浜の吸血鬼は……」
「何人か能力食らっちゃってたけど、通報が入ったから俺とドラ公達で直ぐに捕まえたんだ」
「なるほどね。能力の範囲は?」
「ええっと……」
ロナルドは記憶を遡り、覚えている範囲の情報をセデューマに伝えた。彼女は胸ポケットに差していたペンを取り、サラサラと報告書の紙面に追記を加えていく。次々と繰り出される質問に答えながら、ロナルドは自分がこんな話をしてもいいものかと少し不安が過ぎったがチラと見たセデューマの表情は真剣そのものだ。それはどこかドラルクが真面目に仕事をしている時に見せる雰囲気に近しい。
一通りの質問が終わったところで、セデューマがペンの頭をノックしてペン先を仕舞い、胸ポケットに戻した。ロナルドも人心地ついて、座席の背もたれに身を沈める。
「……そういえば、貴方は能力を受けなかったの?」
「? カップル限定の能力だから、俺は平気だったぜ」
そう返すと、セデューマがどうしてか目を大きく見開いた。何かに驚いているらしいが、皆目検討がつかず、ロナルドは首を傾げて「どうしたんだ?」と聞き返す。
「俺なにか変なこと言った……?」
「……いえ、何も」
だが直ぐにその表情は元の少し冷たい印象のあるものに戻ったかと思うと、ふいと顔を背けられた。よく見れば何かを堪えるように僅かに肩が震えている。
「あの、セデューマさん?」
「いえ、なんでもないの。ごめんなさい、……ふっ」
今、笑った? 再びこちらを向いたが、結局堪えられなかったようにセデューマが噴き出し、尚のことロナルドは困惑した。怒らせた訳ではないようだが、しかし結局彼女はしばらく口元を抑えて小刻みに体を震わせていた。
「……はぁっ、ごめんなさい。笑うと止まらないのよ私」
「う、うん」
「貴方を笑ったんじゃないのよ」
じゃあ誰に対しての笑いだったのだろう。聞きあぐねていると、緩やかなカーブの先で車が停車し、運転手がセデューマへと声をかけた。
「悪いわね、ここで大丈夫かしら?」
車外を見れば、そこは新横浜駅前近辺の通りだった。
「うん、大丈夫。ありがとうございます」
「貴方って、ホントに面白い子ね」
「……その言い方、ドラ公みてぇ」
それは咄嗟に出た意趣返しだった。子ども扱いするような言い方がドラルクに似ていたのもある。思わず口をついて出ただけだったが、ロナルドは直ぐにハッと口を覆ってセデューマを見た。
だがセデューマは先程より一層愉快そうに綺麗なリップを引いた口角を上げている。
「ホント、婚約解消してあげたことを感謝して欲しいくらいだわ」
「? こんやく?」
「聞いてない? 私とドラルク、以前は許嫁だったのよ。親同士が決めたものだけど」
「えっ」
初耳だった。ドラルクから聞いていたのはいとこ同士という話だけだ。ロナルドの心臓が勝手に跳ねて、手の中にじんわりと汗が滲む。そんなロナルドの様子に、セデューマはニコリと柔和な笑みを返した。
「今はただのいとこ同士よ」
「そう、なんだ」
どうしてか喉が詰まって声が途切れてしまった。セデューマに会う前、ドラルクの事を考えていた時の感覚に似ているような、しかしそれよりもいくらか不快の方が勝っている気がする。
「ロナルド。あなた面白いだけじゃなく、可愛いわね」
「は? か、かわ……?」
「また私の仕事に協力してくれる?」
「それは……俺に出来ることなら」
ロナルドが車を下りると、再びパワーウィンドウが下がってセデューマが顔を覗かせた。
「ドラルクによろしくね」
「……うん、わかった」
機嫌の良いセデューマがひらひらと手を振り、それに同じように振り返してからロナルドは車に背を向けて新横浜署の方へと歩いていく。
その背を見ながらセデューマは肩を竦め、ふっと鼻を鳴らした。
「アイツには勿体ないわね、ホントに」
日が暮れつつある新横浜の街中に入り日が差し込んでいる。そういえば明日は土曜日のためか繁華街は人手が多い。所謂ハナキン、というものだが、ロナルドの周りにはそれを楽しみにしているものは少ないのでいまいち理解出来ていない。通り過ぎる人の殆どがロナルドを一瞥していくのを、やはり当人は気が付かないまま真っ直ぐに歩いていった。
ここから新横浜署までもう少しだ。セデューマに送り届けて貰ったお陰で予定していた時間より随分早く帰れそうだった。
「……婚約かぁ……」
聞いた話を思い返して、ロナルドはモヤモヤとした感覚を覚えてほんの少し歩く速度を弛めた。
あまりよく知らないが、ドラルクが何やら凄い一族の跡継ぎであることは理解している。ノースディンの執務室にあったあの肖像画の人が吸対の創設者で、あの人はドラルクの祖父なのだ。ロナルドに取っては縁遠い話であるが、大体そういったお金持ちというやつが婚約者を取り決めることをドラマや映画で見たことがある。
セデューマはその関係を解消した、と言っていたが果たしてドラルクの方はどう考えているのだろう。偶に顔を合わせれば喧喧囂囂と言い争う二人だが、逆に言えばそれほど気負わない相手というのも、ある種では深い仲と言えるのかもしれない。
それにセデューマは綺麗だし、しっかりしていて大人っぽい女性だ。少し気が強すぎるきらいもあるが、魅力的な女性であることは確かだ。
「……俺、なんでこんなこと考えてるんだろ」
ぽてぽてと三角橋の中程まで歩いて、ふと欄干の下に視線を向けて立ち止まる。
このあたりに桜が満開に咲く季節に、ドラルクとこの辺りを巡回して歩いたが、今やすっかり夏が終わりかけていた。時が過ぎるのが早く感じられる。この街に来てからは、特に。
だからそのうちに、ドラルクももっと歳をとるし、もしかすると結婚したりするかもしれない。ドラルクは家事全般が得意だ。もしも結婚したら奥さんのために得意の料理を振る舞うのだろう。今は監視のためにロナルドと同居しているが、その時が来たら——。
「……はぁ……」
重たい溜息を吐く。どうしてかモヤモヤした心地が広がって、何となくもう少し気持ちが落ち着いてから署に戻りたいと思った。だが特に立ち寄る場所も思い浮かばず、暫しロナルドは橋の欄干に寄りかかり、ぼんやりと浅瀬を眺める。
「お?」
「ん?」
ロナルドは聞こえてきた声に顔を上げ、周囲を見回す。すると、行き交う人の中に頭一つ飛び抜けた見覚えのある顔を見つけた。
「カズササン?」
「やっぱり、死を知らぬ男じゃあないか!」
「デケェ声でその呼び方はちょっと……」
だが通りがかったカズサはロナルドの言葉を気に留める様子もなく、ワハハ! と高らかに笑って傍に寄って来た。
何だろう、今日は変な日だ。ドラルクに因縁のある者にばかり出会してしまう。
「こんな所で奇遇だな!」
「カズササンこそ。もう少しで店開ける時間なんじゃないのか?」
「ああそうなんだが、今日はヒナイチが居ないというのにうっかりメニューの材料を切らしてしまってな! マスター自ら買い出しだ!」
そう言ってカズサは両手に抱えた買い物袋を持ち上げて見せてくる。材料を切らしたというには、尋常ではない量だった。
「……持ってくの手伝おうか?」
「おお、本当か! いやぁ助かった、そこそこ重たくてな」
ロナルドは遠慮なしに差し出された買い物袋を受け取る。そこそこの重さだったがロナルドにとってはそれ程でもない。片手にノースディンから貰ったスコーンの紙袋を抱え直して、カズサと並び歩く。
「それで? 何をしていたんだ?」
「ドラ公に頼まれて吸対本部に行ってて、その帰り」
「随分遠回りじゃないか?」
「さっきそこまでセデューマさんに車で送ってもらったんだ」
「なるほどな、彼女に何か言われたのか?」
「えっ、なんで」
「今のはカマかけというやつだ」
「……」
「ハッハッハッ、そんな顔をするな。君は随分素直なんだな。隊長さんやヒナイチが気に入る訳だ!」
以前スマホを壊したことを根に持たれているのだろうか。かける必要のないものをかけられたロナルドがムッとした顔をしたが、カズサはやはり歯牙にもかけず笑う。
「折角だ、寄っていってくれ」
五分も歩けば、新横浜退治人組合に到着する。カズサの後を着いていくと、普段の正面の入口ではなく裏口から中に入るよう促された。
「まだ開いてないんじゃ……」
「分かりやすく言うと、開店の準備も手伝って欲しい。 礼はする!」
「……」
図々しいとはこういう事を言うのだろうか。しかしロナルドとしてももう少し時間を潰したかったので、カズサに言われるままにギルドの中に足を踏み入れる。
「俺は材料を締まってくるから、君は店内の床を磨いて椅子を下ろしててくれ」
あれよあれよという間に持っていた荷物は引き取られ、今度は代わりにモップを手渡された。カズサはさっさと材料の詰まった袋を持ってキッチンの方へと引っ込んでしまったので、仕方なくロナルドは紙袋をカウンターテーブルの上に置き、モップで床を拭いて、テーブルの上にある椅子を下ろして並べていく。
初めてここに来たのも、ドラルクに連れられての事だった。ロナルドの顔を見たカズサは何故かロナルドのことを「ラッキーボーイ」と呼んでソシャゲのガチャ画面を差し出してきたのだが、その頃のロナルドはまだ力の加減が下手だったため、突き立てた指がスマホ画面を貫通してしまったのだ。狼狽えるロナルドと膝から崩れ落ちるカズサを見てドラルクは笑っていたが、結局あの後どうなったのだろうか。
「おー! 仕事が早いな!」
黙々と作業をしているとカズサが戻ってきていた。見ればバーテン服のような出で立ちに着替えており、開店のためにロナルドの脇を通り入口の鍵を開けて「よし!」と振り返った。
「いやぁ助かった! 時間に間に合ったな」
「よかった。じゃあ俺は……」
「待て待て! 礼をすると言っただろ」
そこに座ってくれ、と言ってカズサはカウンターの中へと戻って手招きをしてくる。
「一杯奢らせてくれ。何でもいいぞ」
「えっと、じゃあホットミルクで」
「ホットミルクだな」
まぁ一杯だけなら。そう思ってロナルドはカウンター席に腰を下ろした。カズサがカウンターの中で手際よくホットミルクの用意をしているのを見ながら、先程思い返していたことを聞いてみることにした。
「カズササン、あの、前にスマホ壊しちゃってごめん」
「ん? ああ、あの時のことか! ゲームデータの引き継ぎには手間取ったが問題ない」
「スマホ、新しく買ったのか?」
「最新式に乗り換えて、ドラルク隊に請求書を送ったぞ」
「そ、そうだったんだ」
その事についてもロナルドは知らなかった。ドラルクはそれをどんな顔して受け取ったのだろう、と考える。そうしている間に、カズサが目の前にホットミルクの入ったカップを差し出してきた。
「何、本当に気にする必要はない。あれから力加減も覚えたんだろう?」
「うん。ドラ公やヒナイチと練習した」
「なら結構だ。君はこの街に随分貢献してくれているからな。ギルドとしても大変助かっている。ヒナイチも世話になっているしな。感謝しているよ」
「えっ、あっ、う、うん……」
そんなことを真正面から言われたのは初めてのことだった。日頃から褒められ慣れていないため、ロナルドはカズサの視線を避けるように顔を背け、口元をもにょもにょと歪める。
「それで? セデューマには何と言われたんだ?」
「あー……」
カマをかけられていたことをすっかり忘れていた。ロナルドは果たしてドラルクとセデューマのかつての関係を他人に言っていいものなのかどうかと口篭る。
「もしかして、隊長サンとセデューマが婚約していたことかな?」
「えっ! し、知ってたのか?」
「これで俺は隊長サンとは付き合いが長いからな。確か学生の頃にそんなことをボヤいていた」
「学生?」
「俺と隊長サンは大学の同期でな。一時期仲良くしていたものさ」
「そ、そうなんだ……」
これもまた、ロナルドの知らないドラルクの一側面だった。ドラルクにもそんな時期があったのは理解出来るが、どうにも想像がつかない。ちびちびとホットミルクを飲みながら、ロナルドはカズサの様子を伺う。
「……ドラ公って学生の時どんなだった?」
「うん? 気になるか?」
「あ、いや……き、気になるっていうか、想像出来ねぇなと思って……」
そんなロナルドにカズサはニヤリと笑ってロナルドの前に立ち、自身もグラスに入った水を一口飲んだ。
まだ外は夕日が沈み切っておらず、退治人たちの姿もない。カズサも少しくらいなら世間話に付き合おうという姿勢になって、カウンターの中で椅子を引っ張り出して腰を落ち着けた。
「隊長サンと俺は卒業後の進路は別だったが、学んでいることは同じでな」
「カズササンも前は退治人だったのか?」
「ああ、現役は退いてるが、今も退治人の資格は持っているぞ」
「へぇー。畏怖い吸血鬼と戦ったことある?」
「ああ、とびきりの奴がいたなぁ。まぁそれはまた今度にしよう——隊長サンは同期の中で一番成績が優秀でな。首席で卒業したくらいだ。そういや吸血鬼研究の論文なんかもやたら出してたな。教授連中も吸対じゃなく研究職に就くよう勧めてたな」
「ど、ドラ公ってそんな頭いいのか!?」
確かにドラルクが作戦を立てて指揮をすると、自分がまるでシミュレーションゲームのユニットになったかのような気分になることがある。ロナルド自身も大侵攻の際はその指揮によって捕獲された経験もあるため、確かにその頭の回転の良さには一目置いていたのだが。
「隊長サンは最初から吸対に入るつもりでいたというか、まぁ一族が設立したところだからな。当然と言えば当然ではあるが、だからと言って全く流れ任せで決めたわけでもなさそうだったよ。その辺の真意は俺には一切明かしてくれてないがな」
「そっか……」
この街に来てからというもの、ドラルクと過ごす時間はやたらと多い。殆ど一緒に行動していて、その上今は監視のために一緒に暮らしている。それで随分あのダンピールのことを知った気になっていたが、そうではなかったらしい。
「……」
「どうしたんだ?」
「いや、俺ってドラ公のこと全然知らないんだなぁって思って」
「……それと、やたら女にモテてたな」
「へ?」
ロナルドはその言葉に顔を上げぱちりと瞬きをし、神妙な面持ちで口髭を撫でるカズサを見た。
「女性に対しては紳士ぶるし、家柄も良くて、将来有望な龍の一族の御令孫だからなぁ。まぁモテ加減では俺も負けてなかったけどな!」
「そう、なんだ……」
再びロナルドの胸中に、モヤモヤとしたものが湧いてくる。これは何だか嫌なものだ、とロナルドは思った。これ以上は聞きたくない。
「それは隊長サンから渡されたのか?」
「え? う、うん。吸対本部に入るための許可証代わりって言われて、預けられた」
視線を落とすと、出がけに渡された指輪が目に入った。紫色の宝石が嵌ったそれは、よく見ればリングの部分にも細かな文様が刻まれており、もしかすると一族に関わる特別な指輪なのかもしれない。なるほど、確かに吸対本部に入るには十分な証明になる。
「まぁしかし、隊長サンがそれを誰かに渡したところは見たことがないがな」
ロナルドの見ている指輪に、カズサも気が付いていたらしい。その言葉にロナルドは首を傾げた。誰かに渡す、とはどういうことだろうか。
「この指輪って……」
ロナルドが言葉を発しかけたその時、不意に背後でドアベルの音が鳴った。退治人の誰かが来たのだろうか。それならば、そろそろ自分は退散しなければならない。そう思ってロナルドは背後を振り向いた。
「全く、こんなところに寄り道して……何をしているんだね」
「ど、ドラ公?」
店に入ってきたのは吸対制服姿のドラルクだった。何故、ドラルクがここに来るのだろうか。
「いらっしゃい隊長サン」
「ウチのを連れ込んで、何を吹き込んでたんだ」
ドラルクがその半眼を更に鋭くしてカズサの方を見やる。不機嫌そうに顔を顰めるドラルクの剣幕に、ロナルドは思わず肩を竦めた。どうやら怒っているらしい。
「おいおい、人聞きが悪いな。迷子をお預かりしてただけだってのに」
そんなドラルクにカズサは飄々とした態度で言葉を返す。暫し睨み合いのような状態になってしまい、ロナルドはその間に挟まれ身動きが取れないままオロオロと二人を見比べた。
そのうちにチラと金目がロナルドの方へと向けられる。確かにこれは寄り道で、出がけに言われた約束を破ったのはロナルドの方だ。
「ドラ公、寄り道してごめん。カズササンはたまたまそこで会っただけで……」
ドラルクの過去についてあれこれと聞いていたことについては、白状出来なかった。そういうのはきっとあまり気分のいいものでは無いだろう。何を聞いたにせよ、ドラルクはドラルクである訳だし。
そんな萎縮したようなロナルドの様子に、結局ドラルクは肩の力を抜いて嘆息すると、くるりと背を向けた。
「ほら、帰るよ」
「う、うん」
ロナルドはカウンターチェアから降り、テーブルに置いてあった紙袋を再び腕の中に抱えた。
「あ、そうだ。カズササン」
「うん?」
「これ、いっぱいあるからカズササンと、あとヒナイチの分もあげるぜ」
ロナルドは紙袋の中から小分けに包装されたスコーンを数個取り出すと、それらをカズサに何の気なしに差し出した。後ろでドラルクが更に顔を険しく歪めていたが当然ロナルドはそれには気がついておらず、唯一その様子に気がついてしまったカズサはギュッと唇を引き結んだ。
「? スコーン嫌いか?」
「いいや、ありがたく頂戴しよう」
至極真面目な顔で差し出されたものを受け取るカズサに、ロナルドは小さく首を傾げる。すると、後ろから「ゴホンっ」と咳払いが聞こえてきた。
「ロナルド君」
「わ、分かったってば。じゃあな、カズササン。ありがとう」
「ああ、またいつでも来るといい」
「俺、吸血鬼なんだけど……」
そうして、何がおかしいのかハッハッハッと笑うカズサに見送られながら、ロナルドはドラルクを追いかけてギルドを後にした。
「ドラ公、なんでギルドに俺がいるって分かったんだ?」
「君がこの辺りに来た時点で分かっていたよ。来客があったから迎えに来るのが遅れたけど」
「迎えって……ああ、そうか」
ドラルクはダンピールで、気配探知の能力を持っている。聞くにロナルドの気配はかなり強いため、ドラルクの探知能力であれば直ぐに察知出来るのだとか。それで、ロナルドがどこに寄り道しているのかが分かったのかと納得する。
思案している内につかつかと殆ど早足で先を行くドラルクを、ロナルドは慌てて追いかけた。横並びになって顔を覗き込むと、ドラルクも横目で視線を返してくれる。
「その来客から、君を送り届けたと聞いたしね」
「セデューマさんが? お前のところに寄ったんだ」
「まぁね。君と沢山お喋りしたと自慢して帰っていったよ。というかそれしかしなかった。何しに来たんだ、全く……」
そう言うドラルクはやはり不機嫌そうだった。心做しか唇を尖らせ不貞腐れているようにも見えるが、見間違いだろうか。
「お、怒ってんの?」
「怒ってなどいない」
怒ってる奴が言うセリフだ……と思ったが、口には出さずにおく。しかし、唐突にドラルクがピタリと立ち止まる。二、三歩先に行ったところでロナルドも足を止めて振り返った。
もうすっかり陽が落ち、住宅街の中は夕餉の香りが漂って、点々と等間隔にある街灯が一斉に灯る。
立ち止まったままのドラルクの表情ははっきりと見えている筈なのに、何を考えているのか読み取れない。何だろう、とロナルドは少し緊張して、小さく息を飲んだ。
「怒ってはいないが、心配はした」
「心配? お前が、俺の?」
「そうだよ」
「そ……っか」
「勘違いしているようだけど、私は別に君のことを本気で子ども扱いしてる訳じゃないからね」
「そうなのか?」
「当たり前だろ、子ども扱いしてたら……」
「してたら?」
しかしドラルクはそこで口を噤んで、あー……いや、と続きの言葉を濁し始めてしまう。
たかだか書類を届けるだけの、おつかいみたいなものだ。ロナルドは子どもではないし、確かにドラルクからすれば世間に疎いところがあるかも知れないが、腕っ節の強さだって、体の頑丈さだってある。貧弱なダンピールに心配されるほど頼りない存在では無い筈だ。けれど、何となくそのドラルクから向けられる「心配」が、ロナルドの胸の内でモヤモヤとしていたものを薄めていってくれた。
「……これ、返す」
そう言ってロナルドは右手の薬指に付けていた指輪を外し、ドラルクに差し出す。ドラルクは何か言いたげにしていたが、一先ずそれを受け取って懐にしまい込んだ。
「それ大事なものなんだろ。簡単に預けるなよな」
「言っただろう、君のことを子ども扱いしてないって。だから君以外に渡すことなんて無いよ」
「……」
やたらハッキリとしたドラルクの物言いでモヤモヤはすっかり消えてなくなったが、代わりにむず痒さが去来する。日差しを浴び過ぎたのだろうか、顔が焼けたみたいに熱くなってきて、ロナルドはドラルクからぷいと顔を背けた。後ろで何事かをドラルクが言ったような気がしたが、丁度車が横を通ったために聞き取ることは出来なかった。
「……まあいい。君が書類を届けてくれたから、今日は定時で上がれそうだよ」
「! 本当か?」
「戻ったら直ぐに退勤して、夕飯の食材買いに行くから。荷物持ってくれるかね」
「わかった! 夕飯何?」
「何がいい?」
何となく、まだその時では無いし、ロナルドも自身の胸中に湧いてくる不思議な感覚にまだ名を付けられずにいる。
ドラルクに聞いてみようか。これって何なんだろうって。けれど、そうすべきではない気もして、ロナルドはもう少し自分で考えてみることにした。
「からあげ食いたい!」
「はいはい、今日は特別にデザートもつけてやろう」
「ノースディンから貰ったスコーンあるけど」
「……私は食わん」
「えーっ」
「えーっじゃない、本部で食べてきたんだろ! というか、私の言い付け全て破りおって!」
「食ったし破ったけどさぁ……知らねぇ奴じゃないじゃん」
「知人の中でも全員ろくでもない部類の奴らばっかりだろうが」
「……話してみて思ったけど、そのろくでもない奴らって、みんなお前にどこかしら似てるんだよなぁ」
「はぁ!?」
「まぁいいか。じゃあジョンと吸対の皆にも配って、残りは明日にする。ドラ公も一緒に食おうぜ。ドラ公の淹れるコーヒーとも合いそうだし」
「……わかったよ」
その返事でまたロナルドの気分は一層良くなった。
「なぁ、早く帰ろう」
「うおっ、分かったから。引っ張るんじゃないよ」
やがて訪れる夕闇の中、ロナルドはドラルクを振り返り、その手を取って帰路を急いだ。